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ひながたり。

writing practice as practice flight

WhitePowder 「LAMUNATION!」 遊んだ

ゲーム

(中略)どういう話だったかといわれると、すんなり筋を通して語るのはあまり楽ではない。ただ作中のそこここのきらめきが、記憶にこびりついて、慕わしい思いをそそり立てるのである。(中略)一瞬キラリと光って、それで終り。はかないといえばはかない。しかしそれだけ、きらめきのあえかさが、一際深く、見た眼を通して心にしみわたるということがある。

 

本作の解説だと思いましたか? 残念ながら違っていて、上の文章は鏡花短篇集のあとがきから引用したもの。鏡花の短篇のきらめきが珠玉のそれであるならば、本作のかがやきはラムネ瓶とビー玉に透かして見える、真夏の太陽のそれだろうか。青い空と白い雲のなか、その輝きはどこまでもキラキラとしていて――そんな眩しかった日のこと、そんな夏の日のこと。

 

以下ネタバレ注意です。

 

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セミプロ(ブロガー)

考えごと ゲーム

はじめに

ライフハックLiveshow*1 という毎週アップロードされる動画、研究者でありブロガー*2でもあるM. E. Horiさんが主宰する番組だけど、普段は生放送で聴くことはなくて、でもアーカイブポッドキャストで購読してる。少し前の話になるけど、動画の音声アーカイブの合間にBlogTalkというエピソードが入っていて、これが短いながらも僕が何となく目指している方向性をすごく綺麗に言語化しててちょっと感動した。僕はポッドキャストで聴いたんだけど、Mediumでもほぼ同じ内容の記事を読むことができる。題して「セミプロブログとはなにか」。

 

mehori.podbean.com

 

medium.com

 

この記事では上のエピソードと照らし合わせながらブログのこれまでを振り返って、このブログがいかに自分にとって居心地の良い場所になっているかをひたすら自己満足で書く。この記事を読んでくれた人が上のエピソードを聴いて(もしくは読んで)、自分でもブログをやってみたいなと少しでも思ってくれたら、僕としてはこんなに嬉しいことはない。

 

 

エピソードの内容

短いエピソードなので、内容をここで紹介するような野暮なことはしない。それでも骨子を紹介するならば、述べられていたポイントは3点。これらは必ずしも排他的ではなく、相互に関連しているともいえそうである。

 

  1. 好きなことを息長く書ける気楽さ
  2. 本業や立場にかかわらない、知的アウトプットの場所の確保
  3. 自己表明の場

 

まず2について述べるならば、本業とは別の、というのがポイントで、普段の生活ではなかなか表立って主張できない、というか会話にすら出てこないコンテンツを語るのに、このブログは貴重な場所になってる。そのコンテンツというのは僕の場合はゲームであって、なかなか知的な俎上に乗せにくい・乗りにくいものだとは思うけれど、ここではそんなことお構いなしにいかにも頭良さそうに語れるのは楽しい。例を挙げるならばGAME ONの記事*3では、最先端テクノロジーの文脈からゲームを語れたと思うし、あるいは一面番長の記事*4では、ゲームにおける一面のあり方について思う存分に紹介できた。

 

じゃあなんでこうした記事をこれまで書いてきたかというと、この動機というのが1と3に関係してきて、自分が好きなことについては積極的に語っていきたいと思うし、それは同時に私はこれを良いもの・良いことだと思っています、という自己表明でもある。1でいう気楽さに相当するのが、僕にとっては時間遅れがそうで、たとえば少女の絵の記事*5のように半年前、1年前のことも語るし、あるいはCLANNADの記事*6、もう10年以上前のゲームになるけど、それでも平然と拾って形にする。プロの作法、すなわち収益性を考えるとどうしてもタイムリーな話題になりがちだと思うけど、時間や時代にとらわれずに好きなものについて好きなように語る、そんな気楽さがあるのが良い。

 

 

追記

「本業とは別のコンテンツについて書く」ということは、「本業のコンテンツについては書かない」ということに緩やかにつながっている。僕の中ではあまりに当たり前すぎたから初稿では見落としていたけど、一応触れておきたい。

本業のコンテンツについて書くというのは、それはおのずから僕自身の経験と知識に近いところまで踏み込むということであって、それ自体はやろうとして出来ないことではない(例えば日常会話がそうであるように)。森博嗣が言うところの「日本にいるときは、まったく使い道がない」*7肩書きも一応持っているから、それにかかわる物珍しい経験も、少しは語れるかもしれない。ブログを始めたころは、そういう自分語りをしてみたい欲求もないわけじゃなかった。けれど匿名の範囲内で書ける経験には限度があるから、書いていくうちに文字通り身が削がれていって、いずれジリ貧になることは容易に想像がついた。今ではその方向性を選ばなくて良かったとしみじみ思うし、それよりかは本業とは別にインプットして増えた部分を、少しだけ削り取って記事にする、そういうプラスマイナスゼロになるやり方のほうが、僕にとっては長く書き続けるコツらしいことに気づきつつある。

 

 

書き続けるには

とはいえ、こうしてブログを続けていて、ふと立ち止まることもあるのも事実。そもそもが本業ではないので、書く時間はろくに取れないし、記事を書いても本業が捗るわけでもなく、そして収益があるわけでもない。唯一あるのは自分の成長というモチベーションで、でもそれだけでこれからもずっと進んでいけるかというと、果たして疑問が残らないでもない。冒頭で挙げたBlogTalkでは、こうした知的アウトプットを長く続けるための考え方やテクニックについても紹介してくれるとのことなので、今後の展開に期待しております。

 

 

余 談
  • そもそもこの記事にしても、引用してるBlogTalkがMediumに投稿されたのは4月で、こうして3ヶ月経ってようやく記事にするあたり、その遅さ気楽さはどうかご寛恕ください。

 

 

宮昌太朗 「幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集」 読んだ

ゲーム 読書 考えごと

はじめに

本書はSFマガジンで連載されていたゲームコラムをまとめたもので、2001年から2012年まで各年6回ずつ、計72回+αが収録されている。コラムの文面は少し硬めではあるけれど、それは著者のゲームに対する本気度の裏返しでもあって、ゲームを主題にしても批評的・学術的に書けることを直截的に教えてくれる。それはまさに僕が目指している理想形でもあり。

 

それは、作品評として成立させること。いわゆるバイヤーズガイド的なものでなく、また業界裏話的な状況論も可能な限り避ける。毎回、ひとつの作品を取り上げ、その作品が抱えている魅力や問題点を自分なりの問題意識と照らし合わせつつ、記録としてまとめる。文芸誌などに載っている文芸批評のマナーと同じですね。

 

一年あたりでたったの6回ということで、「取りこぼした話題のあまりの多さに改めて唖然とさせられる」*1とはあるけれど、ゲームそれ自体が「テクノロジーが実現するデジタルなエンターテイメント」*2なわけであるから、ゲームを参照することは自然と当時の最先端テクノロジーを引き合いに出すことになる。その意味では、本書からはこの12年間の技術革新を確かに俯瞰することができる。

 

それぞれのコラムにつながりは無いから、どこから読み始めても良いし、ひとつのコラムの文字数もだいたい1500~2000字といったところでさくっと読める。表紙は青色(ターコイズブルーが近いか)の背景に黒文字が載るシンプルな構成で、タイポグラフィ的センスにあふれる一品。年初に行ったCOMIC ZINで、ふと見かけた装丁の格好良さと中身に惹かれて買った。以来ちょっとずつ読み進めてたんだけど、最近ようやくまとまった時間が取れて、記事書けそうなくらいに読めたので記事にした。

 

 

ゲーム=システム+物語

読んでてなるほどと思ったのが著者のゲームに対する考え方で、曰く「システムと物語のアンサンブルとして捉えること」*3。そしてこの考え方が端的に読み取れるコラムが巻末に収録されている。コラムでは中村光一、かつてエニックスプログラマであった彼に焦点を当てるとともに、彼が開発に携わった2つのゲーム、『トルネコの大冒険』と『弟切草』、これらを"システム"と"物語"のそれぞれの極北として例示しながら批評が展開される。システムと物語、これらがゲームを語るためのいわば切り口としてはたらくという主張で、このふたつを僕はこれまでほとんど意識してこなかったんだけど、幸いにしてどちらも語れるだけの素地は培ってこれたっぽい。

 

というのも僕がこれまで遊んできたシューティングゲーム美少女ゲームというジャンル、これらがシステムと物語に極振りしたそれぞれの地平だと思うからです。シューティングゲームでは一応ストーリーはあるけれどあってないようなもので、その本質は敵を撃って倒す、あるいは敵弾を回避するというシステムにある。一方の美少女ゲームは紙芝居ゲームとも揶揄されるように(これは悪い意味で使われることのほうが多くて、あまり好きな表現ではないけど)、その重みは媒体よりも物語にずっと大きく置かれている。やや両極端ではあるけれど、"システム"側と"物語"側の双方に意識せずとも触れられてきたのは僥倖であった。

 

 

ゲーム=システム+物語 (ANOTHER)

本書の主張である「(ゲームを)システムと物語のアンサンブルとして捉えること」、これをサポートする関連事項として2つ挙げておきたい。ひとつが本書に関連して読み返していた僕たちのゲーム史 (星海社新書)の冒頭にある説明で、以下引用。

 

ゲームの歴史を語りながら僕が説明しようとしている、ゲームの「変わらない部分」と「変化する部分」とは、次のようなものです。僕は以下の2つの点に注目しながら、ゲームの歴史を整理して語っていきます。

・変わらない部分……ボタンを押すと反応すること

・変化する部分……物語をどのように扱うか

 

まさにここで言う変わらない部分がシステム、変化する部分が物語に相当してる。そしてほとんどのゲームがこの切り口でカバーできた (p.17) と述べられていることからも、この切り方が普遍的で有効であることがいえる。まあ上の書きぶりだとシステムがまるで変化しないようだけど、ボタンを押すと反応するというのはかなり低次元の話で、実際には冒頭で書いたテクノロジーの進歩のおかげで、その反応はクオリティの面で確実に変わってきていることを指摘しておきたい。

 

もう一つは個人的体験(普遍性がなくて申し訳ない気持ち)。僕は普段ハッカドールというキュレーションアプリを申し訳程度に使っているんだけど、最近になって表示される記事のなかに、なにやら広告が記事に偽装して入っていることに気付いた。

 

 

だいたいはスマホゲームの広告なんだけど、その宣伝文句がどれも「深いストーリーと高い戦略性!」みたいな感じで煽ってきて、これもゲームの観点がストーリーと戦略、すなわち物語とシステムであることの示唆であると思うと興味深い。深い物語も味わいたいし、でも高度なシステムとも戯れたい、という僕らユーザーのわがままっぷりを可視化されているようで、なんとも微笑ましい。でもどっちも上手くやれるというのは、さすがに少し欲張りすぎではないでしょうか。ちなみに僕はスマホゲームはやらないので、広告の言うところのストーリーと戦略性がどういうものなのかはよくわからない。

 

 

nostalgia

ビジュアルアーツ Natukage/nostalgia

ビジュアルアーツ Natukage/nostalgia

 

 

ゲームの12年間をシステムと物語の観点から語る本書だけど、各年の冒頭にはその年の出来事が幾つか並んでいて、ノスタルジーに浸れる仕様になっている。一方でコラムで取り上げられているゲームについては、僕が知らないものばかりで、正直に言うと懐古感に乏しかった。筆者とゲーム的感性が合わないのか、それとも単に取り上げられている本数が少ないせいか、おそらくどちらも理由だろうし、しかもこの12年間に重なる多くの期間を、僕は東方シリーズ(とりわけ東方永夜抄)に費やしていたというのもある*4。コラムを読んで古いゲームを遊んでみたいと思っても、今となっては遊ぶ環境を作る、ハードを用意してゲームを揃えるということ自体が難しくて、なかなかにきびしい気持ちでいる。それでもコラム「”ピティ”の行方――心の奥底を鷲掴みにする秀作『ICO』」の中で、『Kanon』『Air*5』に続く文脈として紹介されている『ICO』はやってみたい感が半端無くて、調べたらPlayStation Nowで遊べるようになってるらしくて大変助かる思いでいる。

 

ICO

ICO

 

 

本書のタイトルにある「幼年期が終わった後に」というのは、アーサー・C・クラークSF小説幼年期の終わり*6からのオマージュだと思われるけど、12年のあいだに成熟していったゲームに対する著者の思いが、このタイトルには込められている。その詳細をここで述べるような野暮なことはしないままに、この記事は予定調和で書き終わる。著者の思いは本書のあとがきでぜひ確認して欲しい。

  

幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集20012012 (bootleg! books)

幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集20012012 (bootleg! books)

 

 

*1:本書あとがきより引用

*2:本書コラム「ファミコンから20年――『フリップニック』とテレビゲームの新しい潮流」より引用

*3:本書あとがきより引用

*4:ZUN 「東方香霖堂」 - ひながたり。

*5:key 「AIR」 - 音声がつきました - ひながたり。

*6:この小説はアーサー・C・クラークを知ったさいに読んでた→へんりいだいだい - ひながたり。

ブログに書かない毎日

考えごと 読書

概 要

ブログを1ヶ月休んでみた。記事の文字数を稼げないのはメディアの制約ではなく、むしろ自分の思考様式に原因がありそうだった。もうちょっと考えられるようになりたい。

 

 

経 緯

以前に記事*1にしてた森博嗣自由をつくる自在に生きる、記事を書いた当時はあえて触れなかったんだけど、読んで以来ずっと心に引っかかっている一節がある。それとはまさに「ブログの罠」というタイトルで、ブログで人目を気にする、しすぎることで陥りがちな思考様式に警鐘を鳴らしている箇所だった。少し長いけど引用。

 

しかし、ブログを書くことが日常になると、ついブログに書けることを生活の中に探してしまう。(中略)たとえば、1年かけてじっくりと考えるようなもの、10年かけなければ作れないようなもの、そういった大問題や大作ではなく、今日1日で成果が現れるような手近な行為を選択するようになるのだ。

知らず知らず、ブログに書きやすい毎日を過ごすことになる。

これは、「支配」以外のなにものでもない。人の目を気にし、日々のレポートに追われるあまり、自分の可能性を小さくする危険がある。充分に気をつけたほうが良いだろう。

そういう人は、ためしにブログを1ヶ月くらい休むと良いかもしれない。人に見せない、というだけで、自分が選ぶものが変わってくる。

 

森博嗣の言う支配は人の目だけど、最近になって、自分の思考がこのブログという媒体に制約を受けてないかとふと思い始めた。

 

僕の書く記事はだいたい2000字くらい、多くても3000字程度で、この文字数はブログ記事としてはとてもすわりが良い。でも分量だけで換算すれば、上の引用で言うところの「今日1日で成果が現れるような手近な行為」に収まってしまう。ブログ記事としてのすわりが良いのをいいことに、2000字ほどでできる思考の堀り下げに留まってしまって、しかもそこに安穏としているような気がしてしまっている。特に「1年かけて」とか「10年かけて」といった機会がこのブログの中ではほぼ皆無なのが致命的で、自分でも気づかないうちに、思考の持久力が制約されていたのかもしれなかった。

 

そこで上記引用の教えにしたがって、ブログを1ヶ月くらい休んでみた。ここまでの文章は1ヶ月前に書いてて、ここから先を今日になって書き足した。

 

 

結 果

ブログを休んだからといって、1年かけてとか、10年かけてとかの長いスパンで物事を考えたかというと、全然そんなことはなかった。思考の掘り下げが2000字くらいに留まるのはメディアの制約ではなくて、そもそもの自分の思考がその程度の持久力しか保たないせいだということが判明した。原因と結果の因果関係を取り違えてはいけないことに気付いた。1年とか10年とか、僕はそういう遠い未来のことを考えるのが苦手というか、無意識的に避けているのかもしれないということがわかってきた。

 

この2000字くらいという分量は僕にとって居心地が良すぎて、これ以上考えることをさせない魔力がある。けれど、僕はせめて1年くらいのスパンでは物事を考えられるようになりたいと思っているし、そう願っているので、もっと考えようと思う。要はもうちょっと深掘りの効いた思考にしていきたいという緩やかな決意表明です。これはシーケンシャルにつなぐ文字数を多くしたいこととほぼ同義で、これまで以上の長い文章はブログにはそぐわないかもしれないし、書く時間ばかりかかって記事数も減るかもしれないけど、このブログは副題にある通り、どこまでいっても書く練習場所なわけで、そこは自由自在にやっていければ良い。

 

 

余 談

  • 1ヶ月放置してもアクセス数は減らない、これは興味深い観測結果だった。過去記事に対する検索流入が底上げしてくれているかららしくて、なかでも一番活躍しているのが例のアマツツミの感想記事*2*3らしかった。
  • 変わった部分はといえば、ブログに書こうという意識にとらわれずに本を読めたことで、かつて記事にしてたちいさい百合みぃつけた*4、それにハーモニー漫画版*5を再読したりした。もしかしたら記事にするのは難しいかもと半ば思いつつも、久々にハヤカワSFを読んでみたりもした。その意味ではブログに急かされていた部分が少しあったのかもしれないなとも思う。 

 

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

 

 

部屋に少女の絵を飾る(予定)

考えごと

はじめに

数年前にミニマリストの風にあてられて以来、持ち物というか家具を減らしていってて、一年くらい前に壁の一面が空いた。高さ2メートル、幅3メートルほどのまっさらな白壁をどうしようかと考えたとき、LEDプロジェクターを買ってきてホームシアターっぽくするのもいいけど、何か絵を飾るのもまた良さそうだなと思った。なんでそう思ったかというと、先人が素晴らしい記事を書いてくださっているからだった。冒頭にある“絵を絵としてそのまま楽しむ”というのはまさに唯美主義でとても良い。

 

note.mu

 

上の記事で飾られているのは大槍葦人の絵で、記事でも言及されている通り、四艶少女画展という展示が信濃町のアートコンプレックスセンターでやっていたのだった。当時の僕は少女の絵を飾るのは素晴らしいなと思って、展示(いちおう即売会でもあった)にも行ったけれど、でも値段とか諸々の要因で結局買わなかった。その後も何度かアートコンプレックスセンターには行ってて、絵を買おうという目的はそこまでないんだけど、それでも絵をついぞ買わないままに訪れること三度目となったので、それぞれ書く。

 

 

VANTA行った

3度目、今年の1月に行ってた。

 

http://velonyca.net/vanta.html

 

宣伝用に見つけたポストカード、あるいは上のウェブサイトにもあるけど、なんかおどろおどろしい文句が書いてあって、これは萌え疲れた大人に贈る背徳の嗜み*1的なやつだろうか、どうなんだろうと思っていたけど、実際に行ってみたらそんなにルナティックな感じじゃなくて、ちょっと不思議な可愛い女の子という感じだった。それでも作者のツイッターで取り上げられてた雑誌記事の紹介文はこれ以上ないくらいにぴったりだったし、あと記事にある絵は実際に会場にも展示されてたけど、本当に良さあった。この感情をなんと形容するべきか。

 

 

絵はあわよくば買って帰ろうと思ったけど、どれも売約済みっぽかったので諦めた。マグカップもちょっと欲しいと思ったけど、小さめでちょっと引っ掛かりを感じてしまったので結局買わずじまい。せめてもとポストカードだけ買って帰って、開けてみたらシリアルナンバーとサインが入っててちょっと嬉しかった。

 

というか今になって記事書くのに情報漁ってたら、ついこの前の5月半ばにまた個展やってたらしかった。もうすでに会期は終わっていて後の祭り感がある。

 

 

花葬行った

2度目、去年の12月に行ってた。美少女ゲームメーカーのイノセントグレイが10周年ということで、記念の開催らしかった。かのメーカーのゲームはこれまで遊んだことがなくて、あとイラストレーターもよく知らなかったけど、公式サイトの絵は繊細さがあって良かったので行ってみた。実際のところ絵は綺麗だったし、少女たちに儚さあって良かった。

 

Innocent Grey 10周年記念特設サイト

 

展示のおかげでイノセントグレイの意識高まってきて、過去作をまとめたパラノイアを買って、第一作目のカルタグラを遊んだのが今年の1月の話。ただカルタグラの絵には今回の展示にあったような垢抜けた感じはなくて、展示のような絵が出てくるのにはもう少し時を経ないといけないらしかった。

 

絵は買おうかと思わなかったわけではないけど、展示会の存在を知って訪れたのが昨日の今日だったこともあって、もうちょっと冷静に判断したほうが良いのではとなって結局買わなかった。マグカップは絵も綺麗だし、赤の発色が美しくて欲しくなったけど、残念ながら会場では売り切れてた。でもその後に公式サイトでも通信販売していたらしくて、それを知ったときにはすでに時期が終わっていて後の祭り感があった。

 

 

四艶少女画展行った

事の発端、1度目、去年の5月に行ってた。この展示では四人のイラストレーター、みつみ美里大槍葦人本庄雷太、redjuiceの4人が絵を展示するというもの。冒頭の記事にある大槍葦人の天使ちゃんの絵もここで展示されてた。

 

四艶少女画展

 

天使ちゃんのキャプションを見ると「人工的に閉じた世界の心地よさ、完全性みたいなものが好きなのです」とある。これまで僕は絵画に出てくるモチーフというものの概念がいまいち理解できていなかったんだけど、この絵とキャプションですんなりと理解できて、その意味では個人的に印象に残る作品でもあった。盆栽、砂時計、水面に浮かんだアヒル、あるいは後ろに見える書籍もそうかもしれない。閉じた世界の心地よさはたいへんに蠱惑的でいけない。

 

この展示以降に2度も訪れながら、結局絵を買う踏ん切りが付かないというのも、冒頭で引用させていただいた記事にもある天使ちゃんの絵、あるいはこの1度目の展示で目にした絵、これらの印象が強すぎて、彼の絵以外の絵を飾る様子がいまいち想像しにくいというのもある。今になって振り返ると、ここで買っておけば世界線がまた変わっていたのかもしれない。しかもこういったたぐいの展示が次にいつあるのかもわからないので、三たびの繰り返しになるけど後の祭り感がある。仕方がないので画集は買った。

 

 

 

余 談

 

 

*1:Chocolate Shop Float (2005) 「Gothic Lolita Viandier」作品自体は総集編に収録されている→アイフォーン・ケース・センシティブ - ひながたり。

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