ひながたり。

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ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」読んだ

どうやって本書の存在にたどり着いたか、その経緯をすっかり忘れてしまったんだけど、2014年に読んだ本のなかではかなり印象に残ってる。表紙の紹介文にある一節、「自己にたいする強靭な誠実さ」という言葉は、今でも僕の心を捉えてやまない。この誠実さを背景にして、書き手であるヘンリ・ライクロフトは世界に対する恐れであるとか、あるいは迷いといったものも素直に描写してみせる。以下の部分刺さりすぎた。

しかし私が占めえた地位をずっともちつづけるという確信を裏づけるものがなにかあったであろうか。働く人間の地位で、私の地位ほど不安なものが他にあったであろうか。私はそのことを考えると、深淵のふちをぼんやり歩いている人間を見て体がふるえるように、今でも体がふるえる。二十年余の長い間、このペンと紙片のおかげで私や私の家の者が衣食住にもこと欠かず、私もなに不自由なく生活してきたし、右手のほかになんら生きるすべをもたない私という人間に対して向けられた、世間の荒波をも食い止めてきたのだ。そのことを思いだすと、私は今さらのように不思議に思えてならないのである。

僕自身も、かくも道を辿って来られたのはなんでだろうと考えるにつけて、それはただ単に運が良かっただけにほかならないという思いしか出てこない。多少なりとも起こり得たであろう負の分岐、バッドエンドの世界線を想像すると、今でも体がふるえる。

 

私記の書き手、ヘンリ・ライクロフトは南イングランドの片田舎に隠栖しているという設定で、このあたりかつて記事*1にした狼疾記の三蔵と似たような境遇である。けれど、両者の世間に対する考え方は天と地ほど違ってる。世間について、ヘンリ・ライクロフトは私記でこう書いてる。

私にとっては、昔からただ二つの実在しかなかった。すなわち、私自身と世間とである。そしてこの両者間の正常な関係はといえば敵対関係にほかならなかった。私は今でも以前として社会秩序の一部を構成することのできない、孤独な人間なのではないかと思う。

一方の狼疾記では三蔵はこう考えてる。ここ以前にも引用してる。

豊かであるようにと予定したはずの日々が何と乏しく虚しいことか。人間は竟に、執着し・狂い・求める対象がなくては生きて行けないのだろうか。やっぱり、自分も、世間が――喝采し、憎悪し、阿諛する世間が、欲しいのだろうか。

世間から離れようという明確な己の意思のもと、それに誠実にしたがったヘンリ・ライクロフトに対して、三蔵は遁世生活の最後の最後で、世間から離れた自分自身を信じきることができなかった。ここに両者の決定的な違いがある。結局のところ、どこまで自分を信じられるかという話に帰着すると思う。

 

2014年は本書と、あと『ジョジョの奇妙な冒険』第4部を今更ながら読んで、あと宮澤賢治の『雨ニモマケズ』を能登麻美子の朗読CD*2で聴いて、静かに・心安らかに生きたいという思いにとらわれた一年だったなと、今になって振り返ってる。

 

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

 

 

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