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ひながたり。

writing practice as practice flight

宮昌太朗 「幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集」 読んだ

ゲーム 読書 考えごと

はじめに

本書はSFマガジンで連載されていたゲームコラムをまとめたもので、2001年から2012年まで各年6回ずつ、計72回+αが収録されている。コラムの文面は少し硬めではあるけれど、それは著者のゲームに対する本気度の裏返しでもあって、ゲームを主題にしても批評的・学術的に書けることを直截的に教えてくれる。それはまさに僕が目指している理想形でもあり。

 

それは、作品評として成立させること。いわゆるバイヤーズガイド的なものでなく、また業界裏話的な状況論も可能な限り避ける。毎回、ひとつの作品を取り上げ、その作品が抱えている魅力や問題点を自分なりの問題意識と照らし合わせつつ、記録としてまとめる。文芸誌などに載っている文芸批評のマナーと同じですね。

 

一年あたりでたったの6回ということで、「取りこぼした話題のあまりの多さに改めて唖然とさせられる」*1とはあるけれど、ゲームそれ自体が「テクノロジーが実現するデジタルなエンターテイメント」*2なわけであるから、ゲームを参照することは自然と当時の最先端テクノロジーを引き合いに出すことになる。その意味では、本書からはこの12年間の技術革新を確かに俯瞰することができる。

 

それぞれのコラムにつながりは無いから、どこから読み始めても良いし、ひとつのコラムの文字数もだいたい1500~2000字といったところでさくっと読める。表紙は青色(ターコイズブルーが近いか)の背景に黒文字が載るシンプルな構成で、タイポグラフィ的センスにあふれる一品。年初に行ったCOMIC ZINで、ふと見かけた装丁の格好良さと中身に惹かれて買った。以来ちょっとずつ読み進めてたんだけど、最近ようやくまとまった時間が取れて、記事書けそうなくらいに読めたので記事にした。

 

 

ゲーム=システム+物語

読んでてなるほどと思ったのが著者のゲームに対する考え方で、曰く「システムと物語のアンサンブルとして捉えること」*3。そしてこの考え方が端的に読み取れるコラムが巻末に収録されている。コラムでは中村光一、かつてエニックスプログラマであった彼に焦点を当てるとともに、彼が開発に携わった2つのゲーム、『トルネコの大冒険』と『弟切草』、これらを"システム"と"物語"のそれぞれの極北として例示しながら批評が展開される。システムと物語、これらがゲームを語るためのいわば切り口としてはたらくという主張で、このふたつを僕はこれまでほとんど意識してこなかったんだけど、幸いにしてどちらも語れるだけの素地は培ってこれたっぽい。

 

というのも僕がこれまで遊んできたシューティングゲーム美少女ゲームというジャンル、これらがシステムと物語に極振りしたそれぞれの地平だと思うからです。シューティングゲームでは一応ストーリーはあるけれどあってないようなもので、その本質は敵を撃って倒す、あるいは敵弾を回避するというシステムにある。一方の美少女ゲームは紙芝居ゲームとも揶揄されるように(これは悪い意味で使われることのほうが多くて、あまり好きな表現ではないけど)、その重みは媒体よりも物語にずっと大きく置かれている。やや両極端ではあるけれど、"システム"側と"物語"側の双方に意識せずとも触れられてきたのは僥倖であった。

 

 

ゲーム=システム+物語 (ANOTHER)

本書の主張である「(ゲームを)システムと物語のアンサンブルとして捉えること」、これをサポートする関連事項として2つ挙げておきたい。ひとつが本書に関連して読み返していた僕たちのゲーム史 (星海社新書)の冒頭にある説明で、以下引用。

 

ゲームの歴史を語りながら僕が説明しようとしている、ゲームの「変わらない部分」と「変化する部分」とは、次のようなものです。僕は以下の2つの点に注目しながら、ゲームの歴史を整理して語っていきます。

・変わらない部分……ボタンを押すと反応すること

・変化する部分……物語をどのように扱うか

 

まさにここで言う変わらない部分がシステム、変化する部分が物語に相当してる。そしてほとんどのゲームがこの切り口でカバーできた (p.17) と述べられていることからも、この切り方が普遍的で有効であることがいえる。まあ上の書きぶりだとシステムがまるで変化しないようだけど、ボタンを押すと反応するというのはかなり低次元の話で、実際には冒頭で書いたテクノロジーの進歩のおかげで、その反応はクオリティの面で確実に変わってきていることを指摘しておきたい。

 

もう一つは個人的体験(普遍性がなくて申し訳ない気持ち)。僕は普段ハッカドールというキュレーションアプリを申し訳程度に使っているんだけど、最近になって表示される記事のなかに、なにやら広告が記事に偽装して入っていることに気付いた。

 

 

だいたいはスマホゲームの広告なんだけど、その宣伝文句がどれも「深いストーリーと高い戦略性!」みたいな感じで煽ってきて、これもゲームの観点がストーリーと戦略、すなわち物語とシステムであることの示唆であると思うと興味深い。深い物語も味わいたいし、でも高度なシステムとも戯れたい、という僕らユーザーのわがままっぷりを可視化されているようで、なんとも微笑ましい。でもどっちも上手くやれるというのは、さすがに少し欲張りすぎではないでしょうか。ちなみに僕はスマホゲームはやらないので、広告の言うところのストーリーと戦略性がどういうものなのかはよくわからない。

 

 

nostalgia

ビジュアルアーツ Natukage/nostalgia

ビジュアルアーツ Natukage/nostalgia

 

 

ゲームの12年間をシステムと物語の観点から語る本書だけど、各年の冒頭にはその年の出来事が幾つか並んでいて、ノスタルジーに浸れる仕様になっている。一方でコラムで取り上げられているゲームについては、僕が知らないものばかりで、正直に言うと懐古感に乏しかった。筆者とゲーム的感性が合わないのか、それとも単に取り上げられている本数が少ないせいか、おそらくどちらも理由だろうし、しかもこの12年間に重なる多くの期間を、僕は東方シリーズ(とりわけ東方永夜抄)に費やしていたというのもある*4。コラムを読んで古いゲームを遊んでみたいと思っても、今となっては遊ぶ環境を作る、ハードを用意してゲームを揃えるということ自体が難しくて、なかなかにきびしい気持ちでいる。それでもコラム「”ピティ”の行方――心の奥底を鷲掴みにする秀作『ICO』」の中で、『Kanon』『Air*5』に続く文脈として紹介されている『ICO』はやってみたい感が半端無くて、調べたらPlayStation Nowで遊べるようになってるらしくて大変助かる思いでいる。

 

ICO

ICO

 

 

本書のタイトルにある「幼年期が終わった後に」というのは、アーサー・C・クラークSF小説幼年期の終わり*6からのオマージュだと思われるけど、12年のあいだに成熟していったゲームに対する著者の思いが、このタイトルには込められている。その詳細をここで述べるような野暮なことはしないままに、この記事は予定調和で書き終わる。著者の思いは本書のあとがきでぜひ確認して欲しい。

  

幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集20012012 (bootleg! books)

幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集20012012 (bootleg! books)

 

 

*1:本書あとがきより引用

*2:本書コラム「ファミコンから20年――『フリップニック』とテレビゲームの新しい潮流」より引用

*3:本書あとがきより引用

*4:ZUN 「東方香霖堂」 - ひながたり。

*5:key 「AIR」 - 音声がつきました - ひながたり。

*6:この小説はアーサー・C・クラークを知ったさいに読んでた→へんりいだいだい - ひながたり。

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